これはわが国が誇りうる経済学の古典ですよ。外来理論の翻訳に終始してきた「ニッポンの経済学」の伝統のなかで、はじめて世界的にもユニークな独創性のある経済理論が生み出されたのだ。さすがは京都学派である。しかし〔今もそうだが〕外来理論翻訳こそ命と信ずる当時の日本の経済学者の間では極めて評判が悪く、河上はさんざんに冷笑と嘲笑をあびた。岩波文庫本で解説を書いているわが国マルクス経済学の大御所大内兵衛もその解説の中で「極めて未熟な理論」とバカにしている〔バカにするぐらいなら解説なんか書くな〕。でも彼らの河上批判の根拠は河上理論は「十分にマルクス的じゃない、マルクス理論をもっと勉強しろ」という程度のものだから、無視していいようなもの。むしろ勲章みたいなもんだ。
さて河上肇の『貧乏物語』だが、当時わが国及び世界で蔓延していた労働者の貧困問題をどう解決するべきかという問題を、河上肇が長年に渡り真面目に真剣に考え考え抜いた結果の労作なのである。西欧の理論はもとより東洋哲学の考え方も濃厚に反映されている〔この辺がハイカラなマル経学者が気に入らなかったところだろう〕。解決策として河上は所得再分配政策や、国家社会主義的な産業政策も検討するが〔これらの政策にはかなりの魅力は感じながらも〕一番現実的で効果的な政策は別にあると提案するのだ。なんとそれは「金持ちが贅沢しないことこそが貧乏退治の第一の方策」という有名な命題だったのである。ハイカラなマルクス経済学信奉者たちがこれを聞いて拍子抜けであんぐり口を開けてしまった表情が目に浮かぶようで実に愉快。
河上は言う。貧乏人は生活必需品の購入が十分に出来ない。貧乏人でも生活必需品は潤沢に買えるようにしなければならない。でもそれが出来ないのは生活必需品の生産が十分に行われていないからだ。需要があるのに生産が行われないのは、社会の生産能力が生活必需品以外の贅沢品の生産に向けられてしまっているからだが、これは金持ちがカネに任せて贅沢品を需要することから起こる。金持ちをして質実剛健の生活を送らせるべきである。そうすると贅沢品の需要は急減し、社会の生産能力は生活必需品の生産に向けられることになり、貧乏人は安い値段で生活必需品を十分な量だけ購入することが出来る。これこそ貧乏退治の秘策である、と言うもの。
合理的である。理屈が合っているから。河上理論を現代経済学的に解説してみるとなお一層その合理性と整合性がわかる。つまり経済全体の生産量はコブ・ダグラスの生産関数で決まる。全要素生産性が一定であれば資本と労働の投入量が総産出量を規定する。資本と労働は無限には存在しない有限〔稀少〕生産要素である。よってその生産要素の「合理的配分」がなされるべきである。もちろんレオンチエフの行列式〔産業連関表〕を活用し、人為的に各生産部門への生産要素の配分を行うことでもそれは可能だが、これはあまりに社会主義的であり望ましくない。よって需要サイド〔それも一番多く購入する金持ち階級〕の消費パターンを道徳的・倫理的指導により改善することで〔贅沢品を買わないようにさせることで〕稀少な生産要素を望ましい生産部門に誘導することが一番望ましいと言うもの。
この処方箋は日本の特殊文化に非常にフィットしたものでもあった。この河上論文は最初大阪朝日新聞に連載されたものだが、連載中から異常に大きな反響を呼んだ。本に出版されるとたちまち大ベストセラーとなった。大阪商人の「始末始末」の精神に合致している以上に、徳川時代からの武家の伝統文化にも合致するものであったからだろう。直江兼嗣とか徳川吉宗の政治はこの河上理論の実行にほかならないではないか。
河上が対象とした当時の「絶対的貧困」はもはや現代日本では見あたらない。でも河上理論を「無駄なものの生産に稀少な生産要素を投入するのではなく、有意義な価値のある分野に生産能力を振り向けることこそ経済発展に必要なことである」と読み替えれば、河上肇の処方箋は病める現代ニッポン経済にほぼ100%そのまま使える有効なものだ。テレビのCMを見ても実に下らないなくてもいい商品でニッポンは溢れかえっている。単に生産性の悪いだけの旧態依然の商品を「拘りの手作り」とかいって有り難がる風潮も蔓延している。ああいう無駄を省くだけで十分に効率的で競争力のある経済に再生させることが出来るだろう。
日本では社会のエリート〔サムライ〕が質実剛健生活スタイルをよしとしてきた歴史がある。このような文化は〔少なくとも産業革命以降では〕日本だけだ。日本は江戸時代からずっとこんなやり方で経済を成長させてきた。このやり方では産業革命のような革命的ブレイクスルーは無理だが、そこそこ凌ぐことは出来る。日本ではニッポン人の分限を弁えたこんな地味な経済政策が望ましいのかも知れないと最近考えることがある。
大正時代にして、既に日本にもえらい経済学者がいたということを知って、大いに心強く思った。量も少なく読みやすいので寝転がって読める。楽しい。
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